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大宝八幡宮 菊まつり

(11-05-2023 06:07 PM で作成されたトピック)
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こちらで何度か投稿していますが、
関東最古の八幡宮、下妻 大宝八幡宮で菊まつりが開催されているので参拝に伺いました。

大宝八幡宮(だいほう八幡宮)は関東地方の八幡社では最古で、
関東八幡社の大社になっている古社です。
平安時代に編纂された延喜式神名帳には記載されていない式外社です。


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手水舎

思う事いふこと道にあたりなば
神の心も動かざらめや
『昭憲皇太后 御歌』

目に見えぬ 神にむかひてはぢざるは
人の心のまことなりけり
『明治天皇 御製』

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拝殿
大宝八幡宮の由緒は社伝によると、
大宝律令が定められた飛鳥時代の大宝元年(西暦701年)、藤原時忠公が筑紫の宇佐八幡(現・宇佐神宮)を勧請創建したのがはじまりです。天台宗の古い経文の奥書に「治承三年(1179年)己亥七月二十二日の未時書了於常陸州下津間八幡宮書了兼智」とあるため、平安末期にはすでに八幡信仰が盛行していたことがわかります。
平 将門公も戦勝祈願のために度々参拝し、当宮の巫女によって新皇の位を授けられたと伝えられています。
「吾妻鏡(あづまかがみ)」に下妻宮(しもつまのみや)としるされ、
文治五年(1189年)、奥州征伐平定の日、源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し摂社若宮八幡宮を創建されました。

「吾妻鏡」
1180年(治承4年)から1266年(文永3年)までの87年間に起きた出来事を記した歴史書です。 
この時期は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」からはじまり、6代将軍「宗尊親王」(むねたかしんのう)が就任していた時期で、その内容から「将軍記」の一面も持っています。
江戸幕府初代将軍「徳川家康」は吾妻鏡の諸本を愛読書していたと言われています。

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大宝律令は、
飛鳥時代の701年(大宝元年)に制定された律令政治の基本法で、第42代文武天皇によって施行されました。主に刑部親王(おさかべしんのう)と藤原不比(ふじわらのふひと)等の2人が編纂にあたりました。内容は、刑法にあたる「律」と、行政法・民法にあたる「令」とによって構成されています。
 
奈良時代の政治制度で非常に重要な法律で、国全体を支配するための大きな決まりでした。

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大宝八幡宮の御祭神は
誉田別命(第15代 応神天皇)八幡大神
足仲彦命(第14代 仲哀天皇)
気長足姫命(第14代 仲哀天皇の皇后)

二礼二拍手一礼の作法で参拝しました。

応神天皇(八幡神)は仲哀天皇と神功皇后の間に生まれました。仲哀天皇はヤマトタケルの息子ですので、生まれながらに神として祀られる運命だったといっても過言ではないでしょう。
それを裏付ける不思議な伝承が「古事記」「日本書紀」に残されています。
応神天皇が12歳の時のことです。忠臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)とともに敦賀の氣比神宮を参拝すると、夢に御祭神の伊奢沙和気大神(イザサワケ)が現れて、御子(応神天皇)と名前を交換したいと言ってきたのです。申し出を受け入れると、喜んだ神はイルカを浜に打ち上げてお礼の品としました。
歴代天皇はさまざまな形で神様と関わってきましたが、名前を交換したのは応神天皇だけです。なぜイザサワケが名前の交換を望んだのか、理由は示されておらず、謎に満ちています。
このように幼い頃から霊威を示していた応神天皇ですが、神として祀られるようになったのは没後だいぶたってからのことです。

石清水八幡宮に伝わる古文書によると、
欽明天皇の32年(西暦571年)に、今の宇佐神宮の場所に少年の姿の神様が現れて、
「我は誉田(ほむた)天皇、広幡八幡麻呂(ひろはたやわたまろ)なり」と言われたそうです。これにより八幡(やはた)の神とも呼ばれるようになりました。
その後、宇佐神宮は各地に分社(八幡宮、八幡社)が建てられ、貴族や武士の間に信仰が広まって行きました。特に源氏は武門の神として篤く崇敬しました。

※伊奢沙和気大神(イザサワケ)
「古事記」では伊奢沙和気大神
「日本書紀」では去来紗別尊と記す。

日本書紀は「応神天皇の本来の名前がイザサワケだったのだろうか」と疑問を呈しています。

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本殿は国指定重要語文化財
神功皇后(じんぐうこうごう)は、第14代 仲哀天皇の皇后ですが、「古事記」も「日本書紀」も天皇に準じる扱いをしています。
それは歴代天皇に負けない活躍をしているからにほかなりません。
神功皇后が表舞台に登場することになったのは、仲哀天皇の突然の死によってでした。
「西にある金銀宝石に満ちた国を与えよう」という託宣を信じなかったため神罰が当たったのです。皇后は国中の罪穢れを祓って、改めて託宣を求めました。すると、神様は託宣がアマテラスと住吉神の意志であることを明かし、祭祀の方法を教えたのでした。
皇后がそのとおりにすると、海の魚たちが皇后の軍船を背負い、風も強く後押ししたので、あっという間に新羅(しらぎ)に至り、国の半ばまで進んだといいます。
これに恐れをなした新羅王は服属を誓ったと「古事記」は記しています※。
妊娠をしていた皇后は、遠征中に産気づかないように帯に石を入れて押さえていましたが、帰国後、無事に出産しました。のちの応神天皇の誕生です。
ところが、この子の即位を阻もうと異母兄弟が軍を起こしたのです。皇后は「皇子は死んだ」という噂を流して異母兄弟を油断させ、返り討ちにしました。
「日本書紀」によると、皇后は遠征の帰路に遠征を守護した神様を順次祀ったとされ、
現在も住吉神社(山口県下関市)、長田神社(兵庫県神戸市)、生田神社(兵庫県神戸市)、廣田神社(兵庫県西宮市)、住吉大社(大阪市)といったゆかりの神社が鎮座しています。

※「古事記」は記しています。については
この遠征神話が歴史的事実を反映したものなのかについては議論があります。

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参拝後に頂いた御朱印は書き置きで頂きました、
御朱印帳に記帳して頂く場合は
「大寳八幡宮」と書いて頂けます。
境内の紅葉はまだちょっと早く、わずかに色付いている感じでした。

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大正天皇御即位記念樹

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境内社 若宮八幡宮
御祭神は第16代 仁徳天皇

御祭神の仁徳天皇は応神天皇の御子神で息子(若)の若宮となっております。

文治五年(1189年)
奥州征伐平定の日、源 頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し摂社若宮八幡宮を創建されました。頼朝公は太刀一振を奉納したと言われています。

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祖霊殿(護摩堂)
江戸時代に飛騨の匠によって創建とありました。かつては寺院と一体型の神社で、大宝寺八幡宮とも称されていました。


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蝉鐘楼

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入選した菊が並べられています。

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大宝八幡宮御鎮座1300年記念碑

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日の丸とさざれ石に一礼

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大宝八幡宮の菊まつりは11月25日まで開催されています。
今日も良い参拝が出来ました。

長い投稿になりましたがご覧いただきありがとうございます。

2個のコメント
arioo
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雄さま
こんばんは

関東最古の八幡宮さま
菊まつりが行われてるのですね

御朱印もいいですね

七五三

さざれ石🇯🇵

七福神

いいご参拝なされ
お疲れさまでした
雄
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こんばんは
関東人なら一度は参拝してみては??と言っても過言ではない八幡宮だと思います。

菊まつり、たくさんの人で賑わっていました。

いつもコメントありがとうございます🙇今後も良いお時間を👍