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御守り返納とお礼参り

(03-03-2024 08:51 PM で作成されたトピック)
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茨城県下妻市に鎮座する大宝八幡宮に御守りの返納とお礼参りに伺いました。
鳥居の前では必ず一礼(揖)してからくぐります。

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随神門
昭和六十年(1985年)昭和天皇御在位六十年を記念して建てられました。
左右には阿形と吽形の金剛力士像が立っています。

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手水舎
明治天皇御製と昭憲皇太后和歌が書かれています。

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拝殿
常陸国延喜式外社
【大宝八幡宮】
創建 大宝元年(西暦701年)
関東地方最古の八幡宮

御祭神
誉田別命(ほんだわけのみこと)
第十五代 応神天皇

足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)
第十四代 仲哀天皇

気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
神功皇后

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拝殿
社伝によると
白鳳時代の末期、文武天皇の大宝元年(西暦701年)、藤原時忠公が、常陸国河内郡へ下向の際、筑紫(大分県)の宇佐神宮を勧請した事にはじまります。八幡さまをお祀りする神社としては関東地方最古です。大宝という年号は、この年の三月、対馬で初めて国産の金が産出し朝廷に献上され、「大きな宝を手に入れた」と喜ばれた御慶事により改元されたといわれています。
また、大宝元年八月には大宝律令が制定され、律令社会の始まりとなった年でもあり、天平時代の幕開けという、歴史的にも画期的な時期であり、大宝八幡宮は、その後日本の歴史、文化とともに1300年を閲し、その間、何度か火災で社殿等も焼失しているが、その都度再建され、中断することなく連綿として現在に至っています。

大宝八幡宮の財運招福、特に近年みられる宝くじの当選祈願による御利益の発場は社名に恥じません。
平安末期には既にこの地で八幡信仰が盛行しており平将門公も度々戦勝祈願に訪れ、当宮の巫女によって新皇の位を授かったと伝えられています。
文治五年(1189年)、奥州征伐平定の日、
源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮 若宮を勧請し、摂社 若宮八幡宮を創建しました。
寛政七年(1795年)には、光格天皇より額字と御紋幕を賜り、明治十九年には北白川宮より幣帛料が寄進されました。
徳川家からは社領115石が寄進され、歴代将軍の朱印が現存しています。
当宮から勧請された八幡神は数え切れないが、東京深川の富岡八幡宮が著名です。

全国に約44,000社あるといわれる八幡社の総本宮、宇佐神宮は平安時代の延喜格式(延喜式神名帳)では八幡大菩薩宇佐宮と記されており、
奈良時代が起源の神仏習合の称号で、
明治六年、近代社格制度により宇佐神宮と改称されました。

延喜格式で神宮の称号が認められていたのは
皇大神宮(伊勢神宮 内宮)主神 天照大御神
鹿島神宮(名神大社)主神 武甕槌大神
香取神宮(名神大社)主神 経津主大神
の三社のみ。

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第十四代 仲哀天皇は、
もとの名を帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)といい、
倭健命(やまとたけるのみこと)の皇子のひとりであったという。この仲哀天皇の皇后が息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)で、神功皇后(じんぐうこうごう)の名で知られている。彼女は、夫とともに九州の熊曽族を射つため香椎宮(現在の福岡県福岡市)を訪れたとき神に憑依された。
そこで仲哀天皇が琴を弾き、景行天皇の治世から朝廷に仕える健内宿禰(たけうちのすくね)が沙庭で神託を請うた。
沙庭とは、神の言葉を聞くための聖なる場所だ。
神は「西方に国があり、そこには金銀をはじめたくさんの宝がある。私はその国を帰服させようと思う」と語った。
仲哀天皇は「高い所に登って西方を見たが、国土はなく海しかないではないか」と答える。この神は嘘つきだと思った天皇は、琴を弾くのをやめて黙った。
すると神は怒り、「この天下はお 前の統治すべき国ではない。死の国にいるのが相応しい」と告げる。健内宿禰は「恐れ多いことです。わが天皇、やはり琴を弾きなさいませ」と声をかけた。そこで天皇は琴を引き寄せていい加減に弾いたが、すぐに琴の音は止んでしまう。見ると、天皇はすでに崩御していた。
仲哀天皇の急逝は、大いに驚き恐れられ、国を挙げての大祓が行われた。大祓とは、災厄を招くとされる罪の汚れを清める神事だ。
大祓が済むと、健内宿禰は改めて沙庭で神託を請うた。神は西方の国を帰服させるという先日の話を踏まえたうえで、「その国は汝の腹中にいる御子が治める」と告げる。ここで神が呼びかけている相手は神功皇后で、彼女は身ごもっているところだった。
健内宿禰は神に、「その御子は男女いずれでしょうか?」と問いかけると、神は「男子である」と答えた。この御子が、のちの応神天皇である。
さらに、「今こうして教えさとして下さっている神は、いずれの神か、お名前を知りたい」と質問した。神は「これは天照大御神の御意志である。また、底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神である」と答える。
この三柱はのちに住吉三神と総称される。
続けて神は、「今、西方の国を求めるならば、天神地祇、山、河、海のあらゆる神に幣帛を捧げ、われら三神の御魂を船の上に鎮座させて、真木を焼いた灰をひょうたんに入れ、箸と葉盤(ひらで)をたくさんつくりそれらをすべて大海に散らし浮かべて渡って行くが良い」と告げた。

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本殿 国指定重要文化財

仲哀天皇と神功皇后に下された神託が示していた西の海の向こうの国とは、朝鮮半島の新羅(しらぎ)であった。
神功皇后が神託の通りに軍勢を整えて海へ乗り出すと、海原の魚たちがみな船を背負い、追い風が盛んに吹いて船は波のように進んでいったという。やがて、船団を乗せた波は一気に新羅の国の中央に達した。
これを見て新羅の王は大いに恐れ、天皇の馬飼いになり、毎年船を並べて船の腹が乾く間もなく仕えると申し出た。
この馬飼いになるという表現は、馬を献上して臣従を誓うことを示していたようだ。
神功皇后は、新羅を馬飼いとし、さらに朝鮮半島の南部で新羅と隣接している百済を屯家(みやけ)と定めた。屯家とは、朝廷の直轄支配地のことだ。そして、新羅の国王の門前に杖をつき立て、住吉三神の御魂を新羅の地の守護神として祀り、海を渡って帰国した。
なお、『古事記』では朝鮮半島の北部にあった高句麗については言及がないが、
『日本書紀』では、新羅の降伏をみて百済と高句麗も日本に朝貢を申し出たとされている。実際に、朝鮮半島における高句麗、新羅、百済の歴史書の『三国史記』、中国大陸における南朝の史書の『宋書』などにも、5世紀ごろに倭(日本)が朝鮮半島に侵略してきたという記述がある。
朝鮮半島から帰国する前に神功皇后が生んだ御子が品陀和気命(ほんだわけのみこと)で、のちの十五代 応神天皇となる。

応神天皇の治世では朝鮮半島からすぐれた知識や技術を持つ人材が招かれ、渡来人の土木技術による百済池が築かれた。また、応神天皇は百済の王家に「賢人がいれば派遣せよ」と命じ、和邇吉師(わにきし)が渡来して儒教の古典である『論語』や、文字学習の書である『千字文』を伝えた。
さらに、自発的に日本に渡来してきた者も多く、仁番(にほ)または須々許理(すずこり)という人物が新しい酒の醸造法を伝え、応神天皇は献上された酒で上機嫌になったという。

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八幡神 応神天皇の御子神を祀る若宮八幡宮
若宮八幡宮
御祭神 第十六代 仁徳天皇
文治五年(1189年)
奥州征伐平定の日、源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し摂社若宮八幡宮を創建。

第十六代 仁徳天皇は、難波(大阪府)の高津宮に坐して天下を治めた。その業績として、まず、秦氏(中国大陸からの渡来人)の技術を取り入れ、淀川の茨田の堤や運河を築かせている。これは川の氾濫による水害を避けるためだったようだ。
あるとき、仁徳天皇は高い山に登って四方を見渡し、「民がご飯を炊く煙が立っていない。これは国じゅうが困窮しているためだ。これより3年間、民への課税と労役をことごとくやめよ」と宣言した。
このため宮殿の建物も痛んだまま修理されなくなり、いたるところで雨漏りがするようになったが、雨漏りのする場所に木の箱を置いて水を受け、水が漏らない場所に移って雨を避けたという。
その後、国のなかを見渡すと、いたるところでご飯を炊く煙が立つようになった。
仁徳天皇は、これを見て民は充分に豊かになったと考え、租税と労役を再開させる。
今や民は労役にも苦しむことはなく栄えるようになり、仁徳天皇の御代は「聖帝の世」と称えられた。
こうした名君伝説の一方で、仁徳天皇には苦笑を誘う恐妻エピソードもある。
当時は一夫多妻だったが、仁徳天皇の皇后の石之日売命(いわのひめのみこと)はとても嫉妬深く、他の妃が何か目立つようなことを言ったりすると、足をばたばたさせて腹を立てたという。
仁徳天皇はあるとき、吉備(岡山県)の海部直(あべのあたい)の娘、黒日売(くろひめ)を自分のもとに召し上げたが、彼女は皇后の嫉妬を恐れて故郷に逃げ帰る。天皇は高殿から黒日売が乗った船を眺め、
「沖方には 小船連なく 黒鞘の まさづ子我妹 国へ下らす」と歌を詠んだ。
皇后はこれを聞いて、わざわざ海まで使いを送り、黒日売を船から降ろさせて陸路で帰国させた。
しかし、のちに仁徳天皇は石之日売命を騙して「淡路島を見にゆく」と言って黒日売に会いに行き、こっそりデートを楽しんでいたという。さらにのち、石之日売命は自ら紀伊(和歌山県)まで酒宴に使う葉の御綱柏(みつながしわ)を取りに行った。皇后が留守の合間に、仁徳天皇は八田若郎女(やたのわかいらつめ)を新たな妃に迎える。都への帰路の途中、「天皇は新たな妃を迎えて一日じゅう遊んでますよ」と教えられた皇后は、激怒して御綱柏を海に捨て、そのまま仁徳天皇のもとへは帰らなかったという。
『日本書紀』では、その後、仁徳天皇は正式に八田皇女(やたのひめみこ)すなわち八田若郎女を新たな皇后に迎えたとされている。

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梅の花 今咲けるごと 散りすぎず
我が家の園に ありこせぬかも
(万葉集 巻五 八一六)

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蝉鐘楼

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願かけ石

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たくさんの人達の願いが込められています。

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祖霊社

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境内社の『縁切り稲荷』

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宝物館

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関東地方最古の八幡宮、今日も気持ちの良い参拝が出来ました。

長い投稿をみて頂きありがとうございます。

13個のコメント
とめ
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こんばんは😃🌃

大宝八幡宮にお参りさせていただきました🙇
髄神門に金剛力士像がお立ちになっておられる神社があるのを初めて知るなど、色々と勉強になりました🙏

また、由緒正しい八幡宮にお参りさせていただいたことに感謝です。
ありがとうございました🙇

お話の中に新羅が出てきましたので、大田市にある韓神新羅神社の📷添付します🙋
ガラスの反射で読みにくいのですが由緒📷も添付します🙏

明日も良い日でありますように▪︎▪︎▪︎✌️20240301_112953_1000028330_1709260194.jpg20240301_112941_1000028329_1709260182.jpg
雄
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こんばんは🙇
とても貴重な写真見せて頂きありがとうございます🙇
日韓の神社は関東にもいくつか鎮座していますが、韓神新羅神社は初めて知りました。興味深い神社ですね。

宇佐神宮は渡来系氏族秦氏が氏神として八幡神を祀った事が始まりだと聞いた事があります。

常陸国は水戸徳川家の八幡潰しが行われた地域でしたが大宝八幡宮は八幡大社として徳川家からも篤く信仰されていたようです。
また、鎮座地は平安時代から南北朝時代にあった大宝城跡で明治の神仏分離以前には境内に8つの寺院があったようです。

いつもコメント見て頂きコメントありがとうございます。

明日も良い一日をお過ごしください🙇
とめ
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おはようございます 😃
神社に金剛力士像がお立ちになっているのは神仏習合の名残りなのでしょうかね?

韓神新羅神社の近くには、素戔嗚尊が子の五十猛神と高天原から新羅に天下り、その後に船に乗って上陸されたと伝わる「神島」がありますので 📷添付します🙋20240301_111008_1000028312_1709259008.jpg
雄
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おはようございます🙇大宝八幡宮は神仏習合の時代は7~8割が仏教だったと聞いた事があります。

神島
初めて見させて頂きました🙇
素晴らしい写真見せて頂きありがとうございます。

大宝八幡宮の金剛力士像の写真です。1709505936313.jpg1709506029171.jpg
とめ
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📷ありがとうございます🙏
arioo
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雄さま

こんばんは😃🌃
関東最古の八幡宮
お参りお疲れさまです

祖霊社
とてもいいです

蝉鐘楼 ▶️
いい音です
防災 火災難除祈りが
こもってました

🍚
炊く煙が…
いいお話しですね

3月3日
とても暦の良い日でしたね

御朱印いいですね
お写真📸拝見でき
ありがとうございました😊
雄
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こんばんは 😃 🌃
大宝八幡宮は昔は天台宗のお寺と習合していました。

関東で有名な八幡宮と言うと、鎌倉の鶴岡八幡宮ですが、
大宝八幡宮は鶴岡八幡宮よりも362年前に創建された八幡宮です。現在から換算すると1323年前になります。

いつもコメントありがとうございます🙇

今後も良いお時間をお過ごしください🙇


arioo
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1323年
最古の八幡宮️ですね

ご情報ありがとうございました
雄
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おはようございます🙇

関東にお住まいなら、一度は参拝に伺ってみるのも良いですよ☺️