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朔日参り

(09-01-2022 05:47 PM で作成されたトピック)
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雄
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長沼八幡宮に朔日参りに伺いました。

鳥居をくぐる前に、身だしなみを整え、
帽子やバンダナ等の被り物は脱いで
揖を行ってから入ります。

揖(ゆう)とは
相手に敬意をあらわし会釈をするという意味です。

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手水舎

手水舎(ちょうずや)はお寺でも見かけますが、これは神社からお寺に伝わったものです。手水舎は穢れを洗い清める禊の意味合いがあります。

初めて禊をしたのは日本の国土を生んだ
伊邪那岐命(いざなぎ)とあったとされ、
黄泉の国(死者の国)の住人となった伊邪那美命(いざなみ)の姿を見て驚き、地上に逃げ帰り、そして黄泉の国で穢れた体を清める為に海で禊をしました。
これが手水舎の起源とされています。

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随身門
天明7年(1787年)建立

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右大臣

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左大臣

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随身門の扁額には八幡宮と書かれています。

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長沼八幡宮の由緒は社伝によると、
延暦14年(795年)
坂上田村麻呂が東夷征伐に功をなし、その帰途、武運を感謝するため一社を造営し、誉田別尊を奉斎したのが始まりと伝わる。

康平6年(1063年)
源頼義が石清水八幡宮を勧請、
永保2年(1082年)には源頼家が社殿を造営するなど源氏の崇敬厚く、遠征の度に戦勝祈願、寄進がなされた。

元暦年間(1184年~5年)
小山政光の二男宗政が、当地、長沼庄を拝領して城を構え長沼氏を名乗り、長沼氏の守として鶴岡八幡宮を勧請した。

建久4年(1193年)
源頼朝が長沼に宿泊した際、
神夢により「加茂社(別雷尊)・春日社(天児屋根尊)の両神を祀れ」の神託を得て両神を勧請、神領五百石が下賜された。

鎌倉御家人、さらに関東八屋形の一として勢力を誇っていた長沼氏の庇護の下、神社も栄えたが、
戦乱の文明年間(1469年~87年)十二代長沼成宗の時に長沼城落城。神領も没収され衰退する。
江戸時代に入ると幕府から庇護され、
慶長9年(1604年)徳川家より御采地十石を賜る。
寛永20年(1643年)社頭等修営、
元禄10年(1697年)社殿を再興し、青銅鳥居を建立。さらに本地堂の建立、二荒山神社・熊野神社の勧請。天明7年(1787年)随身門が建立された。

春季例祭には嘉永2年(1849年)に始まる永代太々神楽が今もなお奉納され、社頭は大いに賑わう。
また十五夜の秋の例祭には、かつて流鏑馬(やぶさめ)が行なわれていた。

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主祭神
誉田別尊(ほんだわけのみこと)

配祀
天児屋根尊(あめのこやねのみこと)
別雷尊(わけいかずちのみこと)
の三柱

二度揖を行い二度柏手(かしわで)を打ち、
最後にもう一度揖を行う
二礼二拍手一礼の作法でお参りをしました。
神道では拍手の事を柏手(かしわで)といいます。これは拍手の拍を柏と間違えて表記したことに由来します。

拝殿入り口に奉納されている木製のプロペラはBMW製、太平洋戦争前に日本陸軍で採用されていた八八式偵察機のものです。


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長沼八幡宮
御鎮座1,200年事業の記念碑

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『神と柱の結び付き』
神を数える際には、『1人、2人、3人』ではなく、
『1柱(はしら)、2柱、3柱』といいます。
神社の御神木に見られるように、古来、自然物のなかでも特に大木は神が宿るものとされてきました。また、柱は地上から天に向かって垂直に立っていることから、神が降りてくるための通り道だと考えられていました。
このように柱と神とが結び付けられ『柱』で数えられるようになったとされています。

因みに『古事記』には全部で307柱もの神々が登場します。しかし、そのほとんどは名前だけが記され、詳細は語られることがありません。物語の中で活躍するのはわずか30柱ほどです。

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本殿は三間社流造
元禄10年(1697年)再建

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旧本地阿弥陀堂
通称 弥陀八幡(みだはちまん)正徳3年(1713年)建立
長沼八幡宮では神仏習合の時代は阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされていました。

因みに、
八幡宮の総本社 宇佐神宮は、平安時代の延喜式神名帳では『八幡大菩薩宇佐宮』と記されています。
宇佐宮と書いて(うさのみや)と読みます。



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参拝後に頂いた御朱印は長沼八幡宮と一日参り限定の物を頂きました。
境内社の二荒山神社、熊野神社にもお参りを済ませ、良い1日を迎える事が出来ました。

投稿を見て驚きありがとうございます。
23個のコメント
とめ
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こんばんは 😃 🌃

長沼八幡宮にお詣りさせていただきました 🙏
揖については全く知らなかったので、勉強になりました🙋
伊邪那岐命の禊については、古事記の中でも一番重要な場面だと私は思います🙆

長沼八幡宮の由緒ははっきりしていて良いですね 👌
このようにはっきりわかってたら、お詣りする際にも気持ちが違うような気がします 😅
私んとこの氏神さんの八幡宮もそうであったら良いのですが・・・😞
その他も興味深く見させていただきましたが、後でもう少しじっくり読ませていただきます🙋

この後も良いお時間を・・・ ✌️
雄
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こんばんは
いつもコメントありがとうございます🙇
八幡社が源氏と深い関わりがあるのは関東だけなのか?と思っているのですが、出雲地方の八幡社もそうなんですか??
とめ
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すいません🙏
上に行ってしまいました😅
とめ
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八幡さんは武運の神様なので武将が信仰していた、出雲の国で言えば尼子家が富田八幡宮を篤く信仰していたというのはありますが、源氏からは遠い地域なので、源氏と八幡さんの繋がりについては聞いたことがありません。
私が知らないだけかもわかりませんが・・・
雄
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出雲の尼子家の八幡信仰の話をありがとうございますm(_ _)m

清和源氏と八幡信仰の関係性はおそらく関東だけなんでしょうね。

ただ、常陸国では江戸時代頃に、徳川光圀公による八幡潰しがあったんですよ。
潰しと言うと悪いイメージがわきますが、
常陸国にも一つの村にいくつもの八幡社があったんですよ。
そこで徳川光圀公が行ったのが『一村一鎮守』の確立で、一つの村にいくつもある八幡社を排除し、一つにまとめ、新たに鹿島社、静社、吉田社、香取社を祀ったりしました。これにより
八幡社は一村一鎮守になったと言われています。因みにこれは後の神仏分離令にも繋がったともいわれております。

徳川光圀公の八幡潰しは常陸国では、『八幡改め八幡潰し』と言われており、八幡潰しを免れた八幡社が現在も鎮座しております。
この八幡社については後程、こちらに投稿させて頂きます。
いつになるかはわかりませんけどね 🙏

出雲地方の八幡信仰にも興味があるので機会があれば是非参拝したいですね。
とめ
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富田八幡宮の参道と本殿の📷送りますね🙋20211005_144113_16116.jpg20211005_143913_16112.jpg
雄
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ありがとうございます🙇
拝殿、本殿共に茅葺き屋根と言うのが歴史を感じますね。

機会があれば訪れて参拝させて頂きたい八幡様ですね。
創建の由緒なども気になります。
とめ
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由緒はまた機会があればご紹介しますね🙋
屋根は📷ではわかりにくいのですが檜皮葺きだと思います👌
雄
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檜皮葺きでしたか
失礼しました🙇

機会があればご紹介楽しみにしています🙇