オリジナルトピック:

長沼八幡宮 初詣参拝 八八幡詣

(01-13-2025 05:40 PM で作成されたトピック)
69 閲覧回数
雄
Expert Level 5
オプション
ギャラリー

image
栃木県 真岡市 長沼八幡宮

どこぞの神社をお参りすると運気が上がるといった文言を、雑誌やネット上の記事でよく目にします。
しかし、せっかくそのような神社をお参りしても、御祭神の不興を買うような事をしてしまっては、逆効果にもなりかねません。
正しい作法で参拝することが大切です。
神社を参拝する際に、何よりまず心掛けておきたい事は、そこが神様の宮殿だという事です。いってみれば王宮のようなものです。
王宮で無礼な振る舞いをすれば叱られてしまいます。神様も同じ事です。社殿の中から神様がこちらを見ていると思って身を慎むべきです。鳥居をくぐる前に、まず身だしなみを整え、帽子やバンダナ等の被り物は脱いで
鳥居の前では必ず揖を行ってから入ります。
揖(ゆう)とは相手に敬意をあらわし会釈をするという意味です。境内に入ったらまず手水で清めます。参拝の際にはハンカチを忘れずに。
参道を歩く時は中央(正中)を避けます。神様の通り道だからです。拝殿でお参りする時も中央はなるべく避けましょう。
なお境内では脱帽します。寒い日などは参道での着用は構いませんが、拝殿前でお参りする時や昇殿の際には脱帽します。サングラスも取ります。拝殿前での参拝は二拝二拍手一拝(二礼二拍手一礼)です。
拝殿に昇殿して正式参拝する際には、玉櫛奉奠をします。



image
手水舎(ちょうずや)はお寺でも見かけますが、これは神社からお寺に伝わったものです。手水舎は穢れを洗い清める禊の意味合いがあります。

初めて禊をしたのは日本の国土を生んだ
伊邪那岐命(いざなぎ)とあったとされ、
黄泉の国(死者の国)の住人となった伊邪那美命(いざなみ)の姿を見て驚き、地上に逃げ帰り、そして黄泉の国で穢れた体を清める為に海で禊をしました。
これが手水舎の起源とされています。


image
随身門
天明7年(西暦1787年)建立

image
扁額には八幡宮とかかれています。

image
長沼八幡宮の由緒は社伝によると、
延暦14年(西暦795年)
平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂が東夷征伐に功をなし、その帰途、武運を感謝するため一社を造営し、誉田別尊を奉斎したのが始まりと伝わる。

康平6年(西暦1063年)
源頼義が石清水八幡宮を勧請、
永保2年(西暦1082年)には源頼家が社殿を造営するなど源氏の崇敬厚く、遠征の度に戦勝祈願、寄進がなされた。

元暦年間(西暦1184年~5年)
小山政光の二男宗政が、当地、長沼庄を拝領して城を構え長沼氏を名乗り、長沼氏の守として鶴岡八幡宮を勧請した。

建久4年(西暦1193年)
源頼朝が長沼に宿泊した際、
神夢により「加茂社(別雷尊)・春日社(天児屋根尊)の両神を祀れ」の神託を得て両神を勧請、神領五百石が下賜された。

鎌倉御家人、さらに関東八屋形の一として勢力を誇っていた長沼氏の庇護の下、神社も栄えたが、
戦乱の文明年間(西暦1469年~87年) 
十二代長沼成宗の時に長沼城落城。神領も没収され衰退する。
江戸時代に入ると幕府から庇護され、
慶長9年(西暦1604年)徳川家より御采地十石を賜る。
寛永20年(西暦1643年)社頭等修営、
元禄10年(西暦1697年)社殿を再興し、青銅鳥居を建立。さらに本地堂の建立、二荒山神社・熊野神社の勧請。
天明7年(西暦1787年)随身門が建立された。

春季例祭には嘉永2年(西暦1849年)に始まる永代太々神楽が今もなお奉納され、社頭は大いに賑わう。
また十五夜の秋の例祭には、かつて流鏑馬(やぶさめ)が行なわれていた。

image

主祭神
誉田別尊(ほんだわけのみこと)
[第十五代 応神天皇]

配祀
[春日権現]
天児屋根尊(あめのこやねのみこと)

[賀茂大神]
別雷尊(わけいかずちのみこと)
の三柱

二度揖を行い二度柏手(かしわで)を打ち、
最後にもう一度揖を行う
二礼二拍手一礼の作法でお参りをしました。
神道では拍手の事を柏手(かしわで)といいます。これは拍手の拍を柏と間違えて表記したことに由来します。

拝殿入り口扁額の下にに奉納されている木製のプロペラはBMW製、太平洋戦争前に日本陸軍で採用されていた八八式偵察機のものです。


image
参拝後に頂いた御朱印は
八八幡詣(ややはたもうで)
こちらは御朱印帳に直書きで頂きました。

image
初春 巳
こちらは書き置きで頂きました。

image
本殿は三間社流造
元禄10年(西暦1697年)再建

image
難転勝運 千勝大明神(ちかつだいみょうじん)
御祭神 猿田彦大神

江戸時代に常陸国坂井(現、茨城県下妻市)
から勧請され、千勝大明神として親しまれています。御本社の石碑には、江戸の商人達の名前、屋号がびっしりと刻まれています。
商人達の信仰がとても厚いという事は、商売繁盛の神様として熱心に信仰されていた事を物語っています。また「千勝」という字の如く、千度戦っても勝つ「勝運」の神様として、必勝祈願、合格祈願に訪れる方も数多くおられます。
御祭神は導き、道開きの神様のサルタヒコノミコトです。
物事を良き方向へ導く道開きの神様です。

image


image
境内社 熊野神社
御祭神 熊野権現


image
天台宗 道樹坊

旧本地阿弥陀堂
通称 弥陀八幡(みだはちまん)
正徳3年(西暦1713年)建立
長沼八幡宮では神仏習合の時代は阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされていました。

image
ごく希に、神社とお寺を混同されている方を見かけます。神社の境内で「いいお寺だなぁ」
と言ったり、本殿の事を本堂と呼んだり、
お寺でも柏手(かしわで)を打ってみたり。
明治元年(西暦1868年)3月に神仏分離令が行われ、神社とお寺は明確に区別すべきものとされましたが、なにしろ神仏習合は奈良時代から始まり1000年以上の歴史がありますので、今もその名残が社寺の様子にあって、紛らわしい面がある事は事実です。
実際に「あれ?ここはどっちだっけ?」と思う神社、お寺をお参りした事があります。
しかし、神社とお寺とでは、根本的に違うものなのです。
ともに神聖な場所ですので、私達は安易に「社寺」「寺社」と一括りにしがちですが、まったく性質が異なる場所なのです。
では、神社とお寺はどう違うのか。簡単に言うと、神社は神様の為の場所であるのに対し、お寺は人の為の場所なのです。
お寺はもともと出家者が共同で修行をする場所でした。釈迦が在世の頃はその指導を受け、没後は修行経験が長い者が浅い者を導いて、共に悟りを目指していました。
やがて釈迦に対する信仰が広まり、釈迦の像などを礼拝する場所へと変わっていったのです。これに対して神社は神様をお祀りする為の場所です。境内にある建物や神宝、祭具などは、神様に快適にいて頂く為のものといえます。
言い換えれば、神社は神様のお屋敷、宮殿のようなものです。
ですから、参拝は神様に拝謁を願うようなものといえます。身だしなみを整え、お清めをするのは当然の事なのです。


image
境内社 日光三山 二荒山神社
御祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)

世界遺産 日光二荒山神社からの勧請により創建

image
不動明王 辰巳の不動さま

image
相生の木

image


image


image


image


image


image

神は人の敬によって威を増し
人は神の徳をもって運を添う

初詣も兼ねた八八幡詣(ややはたもうで)
晴天に恵まれ良い時間を過ごせました。
投稿を見て頂きありがとうございます。


2個のコメント
arioo
Expert Level 5
ギャラリー
雄さま
おはようございます

プロペラはBMW製
八八式偵察機
👀

八八幡詣(ややはたもうで)
末広がりの数字
いいですね

初春 巳
初詣ならではの御朱印でいいですね

千度戦っても
勝つ「勝運」の神様

いい神社️ですね

相生の木
破魔矢…?下のところ📷

埋まって…?

いい時間お過ごしでしたね

お参り
お疲れ様でした😊


雄
Expert Level 5
ギャラリー
おはようございます🙇
いつもコメントありがとうございます。

良い時間を過ごせましたよ👍また行きたいと思います🙇