雄
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03-03-2024 08:51 PM - 編集済み 03-04-2024 08:18 AM
ギャラリー茨城県下妻市に鎮座する大宝八幡宮に御守りの返納とお礼参りに伺いました。
鳥居の前では必ず一礼(揖)してからくぐります。
随神門
昭和六十年(1985年)昭和天皇御在位六十年を記念して建てられました。
左右には阿形と吽形の金剛力士像が立っています。
手水舎
明治天皇御製と昭憲皇太后和歌が書かれています。
拝殿
常陸国延喜式外社
【大宝八幡宮】
創建 大宝元年(西暦701年)
関東地方最古の八幡宮
御祭神
誉田別命(ほんだわけのみこと)
第十五代 応神天皇
足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)
第十四代 仲哀天皇
気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
神功皇后
社伝によると
白鳳時代の末期、文武天皇の大宝元年(西暦701年)、藤原時忠公が、常陸国河内郡へ下向の際、筑紫(大分県)の宇佐神宮を勧請した事にはじまります。八幡さまをお祀りする神社としては関東地方最古です。大宝という年号は、この年の三月、対馬で初めて国産の金が産出し朝廷に献上され、「大きな宝を手に入れた」と喜ばれた御慶事により改元されたといわれています。
また、大宝元年八月には大宝律令が制定され、律令社会の始まりとなった年でもあり、天平時代の幕開けという、歴史的にも画期的な時期であり、大宝八幡宮は、その後日本の歴史、文化とともに1300年を閲し、その間、何度か火災で社殿等も焼失しているが、その都度再建され、中断することなく連綿として現在に至っています。
大宝八幡宮の財運招福、特に近年みられる宝くじの当選祈願による御利益の発場は社名に恥じません。
平安末期には既にこの地で八幡信仰が盛行しており平将門公も度々戦勝祈願に訪れ、当宮の巫女によって新皇の位を授かったと伝えられています。
文治五年(1189年)、奥州征伐平定の日、
源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮 若宮を勧請し、摂社 若宮八幡宮を創建しました。
寛政七年(1795年)には、光格天皇より額字と御紋幕を賜り、明治十九年には北白川宮より幣帛料が寄進されました。
徳川家からは社領115石が寄進され、歴代将軍の朱印が現存しています。
当宮から勧請された八幡神は数え切れないが、東京深川の富岡八幡宮が著名です。
全国に約44,000社あるといわれる八幡社の総本宮、宇佐神宮は平安時代の延喜格式(延喜式神名帳)では八幡大菩薩宇佐宮と記されており、
奈良時代が起源の神仏習合の称号で、
明治六年、近代社格制度により宇佐神宮と改称されました。
延喜格式で神宮の称号が認められていたのは
皇大神宮(伊勢神宮 内宮)主神 天照大御神
鹿島神宮(名神大社)主神 武甕槌大神
香取神宮(名神大社)主神 経津主大神
の三社のみ。
第十四代 仲哀天皇は、
もとの名を帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)といい、
倭健命(やまとたけるのみこと)の皇子のひとりであったという。この仲哀天皇の皇后が息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)で、神功皇后(じんぐうこうごう)の名で知られている。彼女は、夫とともに九州の熊曽族を射つため香椎宮(現在の福岡県福岡市)を訪れたとき神に憑依された。
そこで仲哀天皇が琴を弾き、景行天皇の治世から朝廷に仕える健内宿禰(たけうちのすくね)が沙庭で神託を請うた。
倭健命(やまとたけるのみこと)の皇子のひとりであったという。この仲哀天皇の皇后が息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)で、神功皇后(じんぐうこうごう)の名で知られている。彼女は、夫とともに九州の熊曽族を射つため香椎宮(現在の福岡県福岡市)を訪れたとき神に憑依された。
そこで仲哀天皇が琴を弾き、景行天皇の治世から朝廷に仕える健内宿禰(たけうちのすくね)が沙庭で神託を請うた。
沙庭とは、神の言葉を聞くための聖なる場所だ。
神は「西方に国があり、そこには金銀をはじめたくさんの宝がある。私はその国を帰服させようと思う」と語った。
仲哀天皇は「高い所に登って西方を見たが、国土はなく海しかないではないか」と答える。この神は嘘つきだと思った天皇は、琴を弾くのをやめて黙った。
すると神は怒り、「この天下はお 前の統治すべき国ではない。死の国にいるのが相応しい」と告げる。健内宿禰は「恐れ多いことです。わが天皇、やはり琴を弾きなさいませ」と声をかけた。そこで天皇は琴を引き寄せていい加減に弾いたが、すぐに琴の音は止んでしまう。見ると、天皇はすでに崩御していた。
仲哀天皇の急逝は、大いに驚き恐れられ、国を挙げての大祓が行われた。大祓とは、災厄を招くとされる罪の汚れを清める神事だ。
大祓が済むと、健内宿禰は改めて沙庭で神託を請うた。神は西方の国を帰服させるという先日の話を踏まえたうえで、「その国は汝の腹中にいる御子が治める」と告げる。ここで神が呼びかけている相手は神功皇后で、彼女は身ごもっているところだった。
健内宿禰は神に、「その御子は男女いずれでしょうか?」と問いかけると、神は「男子である」と答えた。この御子が、のちの応神天皇である。
さらに、「今こうして教えさとして下さっている神は、いずれの神か、お名前を知りたい」と質問した。神は「これは天照大御神の御意志である。また、底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神である」と答える。
この三柱はのちに住吉三神と総称される。
続けて神は、「今、西方の国を求めるならば、天神地祇、山、河、海のあらゆる神に幣帛を捧げ、われら三神の御魂を船の上に鎮座させて、真木を焼いた灰をひょうたんに入れ、箸と葉盤(ひらで)をたくさんつくりそれらをすべて大海に散らし浮かべて渡って行くが良い」と告げた。
神は「西方に国があり、そこには金銀をはじめたくさんの宝がある。私はその国を帰服させようと思う」と語った。
仲哀天皇は「高い所に登って西方を見たが、国土はなく海しかないではないか」と答える。この神は嘘つきだと思った天皇は、琴を弾くのをやめて黙った。
すると神は怒り、「この天下はお 前の統治すべき国ではない。死の国にいるのが相応しい」と告げる。健内宿禰は「恐れ多いことです。わが天皇、やはり琴を弾きなさいませ」と声をかけた。そこで天皇は琴を引き寄せていい加減に弾いたが、すぐに琴の音は止んでしまう。見ると、天皇はすでに崩御していた。
仲哀天皇の急逝は、大いに驚き恐れられ、国を挙げての大祓が行われた。大祓とは、災厄を招くとされる罪の汚れを清める神事だ。
大祓が済むと、健内宿禰は改めて沙庭で神託を請うた。神は西方の国を帰服させるという先日の話を踏まえたうえで、「その国は汝の腹中にいる御子が治める」と告げる。ここで神が呼びかけている相手は神功皇后で、彼女は身ごもっているところだった。
健内宿禰は神に、「その御子は男女いずれでしょうか?」と問いかけると、神は「男子である」と答えた。この御子が、のちの応神天皇である。
さらに、「今こうして教えさとして下さっている神は、いずれの神か、お名前を知りたい」と質問した。神は「これは天照大御神の御意志である。また、底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神である」と答える。
この三柱はのちに住吉三神と総称される。
続けて神は、「今、西方の国を求めるならば、天神地祇、山、河、海のあらゆる神に幣帛を捧げ、われら三神の御魂を船の上に鎮座させて、真木を焼いた灰をひょうたんに入れ、箸と葉盤(ひらで)をたくさんつくりそれらをすべて大海に散らし浮かべて渡って行くが良い」と告げた。
本殿 国指定重要文化財
仲哀天皇と神功皇后に下された神託が示していた西の海の向こうの国とは、朝鮮半島の新羅(しらぎ)であった。
神功皇后が神託の通りに軍勢を整えて海へ乗り出すと、海原の魚たちがみな船を背負い、追い風が盛んに吹いて船は波のように進んでいったという。やがて、船団を乗せた波は一気に新羅の国の中央に達した。
これを見て新羅の王は大いに恐れ、天皇の馬飼いになり、毎年船を並べて船の腹が乾く間もなく仕えると申し出た。
この馬飼いになるという表現は、馬を献上して臣従を誓うことを示していたようだ。
神功皇后は、新羅を馬飼いとし、さらに朝鮮半島の南部で新羅と隣接している百済を屯家(みやけ)と定めた。屯家とは、朝廷の直轄支配地のことだ。そして、新羅の国王の門前に杖をつき立て、住吉三神の御魂を新羅の地の守護神として祀り、海を渡って帰国した。
神功皇后が神託の通りに軍勢を整えて海へ乗り出すと、海原の魚たちがみな船を背負い、追い風が盛んに吹いて船は波のように進んでいったという。やがて、船団を乗せた波は一気に新羅の国の中央に達した。
これを見て新羅の王は大いに恐れ、天皇の馬飼いになり、毎年船を並べて船の腹が乾く間もなく仕えると申し出た。
この馬飼いになるという表現は、馬を献上して臣従を誓うことを示していたようだ。
神功皇后は、新羅を馬飼いとし、さらに朝鮮半島の南部で新羅と隣接している百済を屯家(みやけ)と定めた。屯家とは、朝廷の直轄支配地のことだ。そして、新羅の国王の門前に杖をつき立て、住吉三神の御魂を新羅の地の守護神として祀り、海を渡って帰国した。
なお、『古事記』では朝鮮半島の北部にあった高句麗については言及がないが、
『日本書紀』では、新羅の降伏をみて百済と高句麗も日本に朝貢を申し出たとされている。実際に、朝鮮半島における高句麗、新羅、百済の歴史書の『三国史記』、中国大陸における南朝の史書の『宋書』などにも、5世紀ごろに倭(日本)が朝鮮半島に侵略してきたという記述がある。
朝鮮半島から帰国する前に神功皇后が生んだ御子が品陀和気命(ほんだわけのみこと)で、のちの十五代 応神天皇となる。
応神天皇の治世では朝鮮半島からすぐれた知識や技術を持つ人材が招かれ、渡来人の土木技術による百済池が築かれた。また、応神天皇は百済の王家に「賢人がいれば派遣せよ」と命じ、和邇吉師(わにきし)が渡来して儒教の古典である『論語』や、文字学習の書である『千字文』を伝えた。
さらに、自発的に日本に渡来してきた者も多く、仁番(にほ)または須々許理(すずこり)という人物が新しい酒の醸造法を伝え、応神天皇は献上された酒で上機嫌になったという。
応神天皇の治世では朝鮮半島からすぐれた知識や技術を持つ人材が招かれ、渡来人の土木技術による百済池が築かれた。また、応神天皇は百済の王家に「賢人がいれば派遣せよ」と命じ、和邇吉師(わにきし)が渡来して儒教の古典である『論語』や、文字学習の書である『千字文』を伝えた。
さらに、自発的に日本に渡来してきた者も多く、仁番(にほ)または須々許理(すずこり)という人物が新しい酒の醸造法を伝え、応神天皇は献上された酒で上機嫌になったという。
八幡神 応神天皇の御子神を祀る若宮八幡宮
若宮八幡宮
御祭神 第十六代 仁徳天皇
文治五年(1189年)
奥州征伐平定の日、源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し摂社若宮八幡宮を創建。
奥州征伐平定の日、源頼朝公が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し摂社若宮八幡宮を創建。
第十六代 仁徳天皇は、難波(大阪府)の高津宮に坐して天下を治めた。その業績として、まず、秦氏(中国大陸からの渡来人)の技術を取り入れ、淀川の茨田の堤や運河を築かせている。これは川の氾濫による水害を避けるためだったようだ。
あるとき、仁徳天皇は高い山に登って四方を見渡し、「民がご飯を炊く煙が立っていない。これは国じゅうが困窮しているためだ。これより3年間、民への課税と労役をことごとくやめよ」と宣言した。
このため宮殿の建物も痛んだまま修理されなくなり、いたるところで雨漏りがするようになったが、雨漏りのする場所に木の箱を置いて水を受け、水が漏らない場所に移って雨を避けたという。
その後、国のなかを見渡すと、いたるところでご飯を炊く煙が立つようになった。
仁徳天皇は、これを見て民は充分に豊かになったと考え、租税と労役を再開させる。
今や民は労役にも苦しむことはなく栄えるようになり、仁徳天皇の御代は「聖帝の世」と称えられた。
こうした名君伝説の一方で、仁徳天皇には苦笑を誘う恐妻エピソードもある。
当時は一夫多妻だったが、仁徳天皇の皇后の石之日売命(いわのひめのみこと)はとても嫉妬深く、他の妃が何か目立つようなことを言ったりすると、足をばたばたさせて腹を立てたという。
仁徳天皇はあるとき、吉備(岡山県)の海部直(あべのあたい)の娘、黒日売(くろひめ)を自分のもとに召し上げたが、彼女は皇后の嫉妬を恐れて故郷に逃げ帰る。天皇は高殿から黒日売が乗った船を眺め、
「沖方には 小船連なく 黒鞘の まさづ子我妹 国へ下らす」と歌を詠んだ。
皇后はこれを聞いて、わざわざ海まで使いを送り、黒日売を船から降ろさせて陸路で帰国させた。
しかし、のちに仁徳天皇は石之日売命を騙して「淡路島を見にゆく」と言って黒日売に会いに行き、こっそりデートを楽しんでいたという。さらにのち、石之日売命は自ら紀伊(和歌山県)まで酒宴に使う葉の御綱柏(みつながしわ)を取りに行った。皇后が留守の合間に、仁徳天皇は八田若郎女(やたのわかいらつめ)を新たな妃に迎える。都への帰路の途中、「天皇は新たな妃を迎えて一日じゅう遊んでますよ」と教えられた皇后は、激怒して御綱柏を海に捨て、そのまま仁徳天皇のもとへは帰らなかったという。
『日本書紀』では、その後、仁徳天皇は正式に八田皇女(やたのひめみこ)すなわち八田若郎女を新たな皇后に迎えたとされている。
あるとき、仁徳天皇は高い山に登って四方を見渡し、「民がご飯を炊く煙が立っていない。これは国じゅうが困窮しているためだ。これより3年間、民への課税と労役をことごとくやめよ」と宣言した。
このため宮殿の建物も痛んだまま修理されなくなり、いたるところで雨漏りがするようになったが、雨漏りのする場所に木の箱を置いて水を受け、水が漏らない場所に移って雨を避けたという。
その後、国のなかを見渡すと、いたるところでご飯を炊く煙が立つようになった。
仁徳天皇は、これを見て民は充分に豊かになったと考え、租税と労役を再開させる。
今や民は労役にも苦しむことはなく栄えるようになり、仁徳天皇の御代は「聖帝の世」と称えられた。
こうした名君伝説の一方で、仁徳天皇には苦笑を誘う恐妻エピソードもある。
当時は一夫多妻だったが、仁徳天皇の皇后の石之日売命(いわのひめのみこと)はとても嫉妬深く、他の妃が何か目立つようなことを言ったりすると、足をばたばたさせて腹を立てたという。
仁徳天皇はあるとき、吉備(岡山県)の海部直(あべのあたい)の娘、黒日売(くろひめ)を自分のもとに召し上げたが、彼女は皇后の嫉妬を恐れて故郷に逃げ帰る。天皇は高殿から黒日売が乗った船を眺め、
「沖方には 小船連なく 黒鞘の まさづ子我妹 国へ下らす」と歌を詠んだ。
皇后はこれを聞いて、わざわざ海まで使いを送り、黒日売を船から降ろさせて陸路で帰国させた。
しかし、のちに仁徳天皇は石之日売命を騙して「淡路島を見にゆく」と言って黒日売に会いに行き、こっそりデートを楽しんでいたという。さらにのち、石之日売命は自ら紀伊(和歌山県)まで酒宴に使う葉の御綱柏(みつながしわ)を取りに行った。皇后が留守の合間に、仁徳天皇は八田若郎女(やたのわかいらつめ)を新たな妃に迎える。都への帰路の途中、「天皇は新たな妃を迎えて一日じゅう遊んでますよ」と教えられた皇后は、激怒して御綱柏を海に捨て、そのまま仁徳天皇のもとへは帰らなかったという。
『日本書紀』では、その後、仁徳天皇は正式に八田皇女(やたのひめみこ)すなわち八田若郎女を新たな皇后に迎えたとされている。
梅の花 今咲けるごと 散りすぎず
我が家の園に ありこせぬかも
(万葉集 巻五 八一六)
長い投稿をみて頂きありがとうございます。
kaoring
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03-05-2024 10:35 PM
ギャラリー
雄さん こんばんは👋
変わった鳥居⛩️ですね🧐
神仏の事は良く分からないので
失礼があっては申し訳ないので
コメントは控えさせて頂きます🙏💦
全然関係無い事ですが…
COMPLEX またやってくれますね👏
チャリティーライブ🎤💕
ニュース見た時びっくりしました!
ウチの兄はチケット応募してみる😤って言ってました🤭
吉川晃司×布袋寅泰...再び!!!!!
鳥肌たちました〰️👍✨
変わった鳥居⛩️ですね🧐
神仏の事は良く分からないので
失礼があっては申し訳ないので
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全然関係無い事ですが…
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ウチの兄はチケット応募してみる😤って言ってました🤭
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03-05-2024 10:45 PM - 編集済み 03-05-2024 10:47 PM
ギャラリー
こんばんは
能登半島地震のチャリティーLIVE
COMPLEX 日本一心
5月15日、16日の2DAYSで開催されますね。
でも、チケットがファンクラブ優先で一般チケットを取るのが困難なのと、水曜、木曜の平日なので私は行きません ✋️
DVDかBlu-rayが販売すると思うので、出たら買います 👍
吉川晃司さん、白内障で両目手術とニュースでやってました。
能登半島地震のチャリティーLIVE
COMPLEX 日本一心
5月15日、16日の2DAYSで開催されますね。
でも、チケットがファンクラブ優先で一般チケットを取るのが困難なのと、水曜、木曜の平日なので私は行きません ✋️
DVDかBlu-rayが販売すると思うので、出たら買います 👍
吉川晃司さん、白内障で両目手術とニュースでやってました。
kaoring
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03-05-2024 10:54 PM
ギャラリーそう…吉川晃司さんに限らず
皆さんそんなお年なんですよね。
身体にガタがくるお年頃…
兄も平日だし東京まで遠いし…
なんて言ってましたが
いつ何があるかわからないんだから
行けるなら行った方が良いよ!
って言いました💦
不仲と言われてますが
それでもやるっ!て決めた
吉川晃司×布袋寅泰に
感激しました。
何だか久しぶりに嬉しいニュースでした♡
雄
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03-05-2024 11:19 PM - 編集済み 03-05-2024 11:22 PM
ギャラリー東日本大震災のチャリティーLIVE
日本一心でCOMPLEXが一夜限りの再結成は感激しましたが
また今回、チャリティーLIVEで再結成、凄いですよね 😃
特に被災地の方々にとっては大きな励みと喜びになるでしょうね。
いつ何がおこるか分からないですから、後悔する位なら、やれるうちにやっておくべきですね。
CREAM SODA創設者の山崎眞行氏が残した名言『やるだけやっちまえ』
これしかないと思います 👍